「……ん?」
目を覚まし、感じた。
あの感触、あの匂いを。 ゆっくり顔を横に向けると、そこには沙耶〈さや〉の意地悪そうな笑顔があった。「おはようございます、遊兎〈ゆうと〉。今日は大サービスだぞ」
そう言って、悠人〈ゆうと〉の鼻を甘噛みした。
「はむっ……」
「うぎゃああああああっ!」
* * *
「いい目覚めだったようだな、遊兎」
温泉旅行の時と同じ、膝までのジーパン、赤いダウンに帽子をかぶった沙耶が、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「いやいや、何度経験しても、あの目覚めは心臓に悪いぞ」
「何を言うか。この二日、夜這いをかけられなかったのだ。私のストレスを考えて見ろ」
「どんな理屈だよ」
「おかげで今日はすっきりしたぞ」
駅のベンチに座る二人。昨日とはうってかわって、五月晴れの気持ちのいい天気だった。
「そろそろダウンも暑いだろ」
「いや、そうでもないぞ。こいつは中身を重ねるタイプでな、今はそれを外しているので快適だ。それにジャケットの中はシャツ一枚だからな、丁度よいのだ」
「気に入ってくれてるみたいで何よりだ」
「うむ。夏に着れないのが残念だ」
そう言って小さく笑う。
「で、だ。遊兎よ、今日は私をどうエスコートするつもりなのだ」
「後の楽しみじゃ駄目なのか」
「いや、その……駄目という訳ではないのだが……心の準備とかは必要ないのか」
「なんだお前、緊張してるのか」
「にゃ……にゃにを言うか! デートごときに緊張など!」
「沙耶」
「なんだ」
「噛んだな、今」
「ふにゃああああっ!」
* * *
「&he
今朝は目覚めがいい。 熟睡出来た時のような、爽快感があった。「さすがに熟睡出来たか……目覚ましより早く起きたのに、体が軽いな」 小鳥〈ことり〉とのデートの日。悠人〈ゆうと〉がそう言って大きく伸びをした。 その時悠人の耳に、小鳥の歌が聞こえてきた。 小鳥が来てから、毎日聞いていた歌。三日聞かなかっただけで、随分と懐かしい感じがした。「え? 小鳥……?」 こんな早い時間から、小鳥は来てるのか?「あ、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、おはよー!」 小鳥が悠人の部屋に入ってきた。いつもの元気な笑顔だ。「ちょっと待っててね。今、朝ご飯作ってるから。て、時間的には昼ご飯なんだけどね」「……昼?」 悠人が時計を見る。時間は昼の12時を回っていた。「……12時! 俺、寝過ごしたのか!」 悠人が慌てて飛び起きる。 なんてこった。よりによって、小鳥とのデートに日に寝坊するなんて。 目覚ましも間違いなくセットしておいたのに、無意識に切ってしまったのか。悠人が青ざめた顔で台所に向かった。「小鳥ごめん!」 小鳥に向かい、勢いよく頭を下げる。「どうしたの? 悠兄ちゃん」「いやその……寝過ごしてしまった。すまん!」「ああそのこと? いいよそんなの。だって悠兄ちゃん、三日間大変だったんだから」「いや、でも……約束は約束だ。折角のデートなのに俺、目覚まし止めちまって」「それ、小鳥だよ」「え?」「小鳥が止めたんだよ。今日は朝からここにいたんだ。ルールだから仕方なかったけど、悠兄ちゃんと三日も会えなかったんだから、早く会いたくて。 それでね、悠兄ちゃんの部屋に忍び込んで、目覚まし止めておいたんだ。
その後駄菓子屋を回り、道端でたこ焼き、焼きそばと食べ歩く。そうこうしているうちに、いい時間になってきた。 悠人〈ゆうと〉が最後に向かった場所。それは通天閣だった。 レトロな街並みの中、存在感のある出で立ちに沙耶〈さや〉が言葉を失う。 エレベーターを上り展望台へ。大阪の街並みが一望に見渡せた。「遊兎〈ゆうと〉、あれは何だ」「ああ、あれは双眼鏡だ。見てみるか」 そう言われ、目を輝かせて何度もうなずく。「おおっ! すごいぞ遊兎! 街がこんなに大きく見える!」 沙耶が子供のようにはしゃぐ。「私たちの街はどっちだ」「あっちの方角だよ」「そうか……私は今、あの辺りに住んでいるのだな。遊兎たちと……」「ああ。お前の街だよ、あそこは」「私の街……くすぐったいな、遊兎」 沙耶が照れくさそうに笑う。そうしてしばらく見ていると、時間切れになった視界が、ガシャンという音と共に問答無用で真っ暗になった。「ひゃっ……」 沙耶が驚いて後退る。「お、終わったのか……」「びっくりしたか」「うむ。時間だ消えろ、そう言われたような気がした」「はははっ。もう一回見るか?」「いや、十分楽しんだ」 そう言って笑い、再び悠人の腕にしがみついた。 * * * マンションに着いた二人が、扉前で言葉を交わす。「楽しかったよ。ありがとな、沙耶」「礼を言うのは私の方だ。こんな楽しい時間、生まれて初めてだったぞ」 目をつむり、胸に手を当てた沙耶が、噛みしめるようにそう言った。「楽しんでくれたのならよかった。色々考えたかいがあったよ」「違うのだ、遊兎よ」「え?」
「腹は膨らんだか」「うむ。全く庶民には困ったものだ」「しかしお前、いくら美味いからって、一体何本食ったんだ」「し、仕方あるまい。感動したのだ、初めてだったのだ……少しぐらい、優しくしてくれても……」「変な言い方をするな」 二人は喫茶店でコーヒーを飲んでいた。 静かで落ち着いた佇まい。まるでそこだけ時間が止まっているような、そんな懐かしい感じのする店だった。店内にはジャズが流れている。「遊兎〈ゆうと〉は不思議なところを、たくさん知っているな」「そうか? まあ、地元みたいなもんだしな」「知っての通り、私は子供の頃から天才と呼ばれてきた。知識だけなら、お前より遥かに多くのことを知っているはずだ」「だろうな。IQだけでも、俺二人分ぐらいありそうだ」「だが所詮、それらは全て動かずして得た知識だ。ネットの世界に入り、私はこれまで体験したことのない、情報の渦に飲み込まれて感激した。しかし遊兎、お前と出会ってから知ることは、それ以上の感動だった。正に生きた知識だ」「大袈裟だな」「大袈裟ではないぞ。私の周りにいた者どもの何人が、遊兎の持っている生きた知識を知っているか。おそらく誰も知るまい。やつらは今、私が経験していることを取るに足らない、くだらないものだと笑うかもしれない。こんなものを知らなくても、人生に何の影響もない、そう言うかもしれない。だが、知ってしまった私から言わせれば、やつらの人生こそ薄いものだ」「おいおい、テーマが壮大になってるぞ」「私の素直な気持ちだ」「だろうな。今言ったこと全部、お前の本当の気持ちだと思う。でもな、沙耶〈さや〉。そう思える、お前の懐の深さこそがすごいんだぞ」「……」「お前のそういうところが、俺は気に入ったんだ。ネットの世界でお前に出会った時、お前の発信する言葉は強烈だった。一言一言に力があった。それに圧倒されるやつも多かった。独善的な意見もあったが、それで
「……ん?」 目を覚まし、感じた。 あの感触、あの匂いを。 ゆっくり顔を横に向けると、そこには沙耶〈さや〉の意地悪そうな笑顔があった。「おはようございます、遊兎〈ゆうと〉。今日は大サービスだぞ」 そう言って、悠人〈ゆうと〉の鼻を甘噛みした。「はむっ……」「うぎゃああああああっ!」 * * *「いい目覚めだったようだな、遊兎」 温泉旅行の時と同じ、膝までのジーパン、赤いダウンに帽子をかぶった沙耶が、意地悪そうな笑みを浮かべた。「いやいや、何度経験しても、あの目覚めは心臓に悪いぞ」「何を言うか。この二日、夜這いをかけられなかったのだ。私のストレスを考えて見ろ」「どんな理屈だよ」「おかげで今日はすっきりしたぞ」 駅のベンチに座る二人。昨日とはうってかわって、五月晴れの気持ちのいい天気だった。「そろそろダウンも暑いだろ」「いや、そうでもないぞ。こいつは中身を重ねるタイプでな、今はそれを外しているので快適だ。それにジャケットの中はシャツ一枚だからな、丁度よいのだ」「気に入ってくれてるみたいで何よりだ」「うむ。夏に着れないのが残念だ」 そう言って小さく笑う。「で、だ。遊兎よ、今日は私をどうエスコートするつもりなのだ」「後の楽しみじゃ駄目なのか」「いや、その……駄目という訳ではないのだが……心の準備とかは必要ないのか」「なんだお前、緊張してるのか」「にゃ……にゃにを言うか! デートごときに緊張など!」「沙耶」「なんだ」「噛んだな、今」「ふにゃああああっ!」 * * *「&he
車が高速に乗る。 窓の外は徐々に暗くなっていき、街が夜のとばりに包まれていく。その景色を眺めながら交わす二人の会話は、つきることがなかった。「さあ降りて」 二時間近くのドライブは、菜々美〈ななみ〉にとってあっと言う間の時間だった。 もっと悠人〈ゆうと〉さんのことを知りたい。もっと私のことを知ってほしい……これまで悠人に対して育んできた想いが言葉となり、今まで願ってきた、悠人と二人だけの時間をかみ締めていた。「さあ、お手を」 そう言って差し出された悠人の手。目の前にある悠人の笑顔は、菜々美にとって間違いなく、王子様のそれだった。 車から出ると、風が少し冷たかった。悠人がそっと、自分の上着を菜々美の肩にかける。「悠人さん、ここって」 降りた場所は、山の頂上付近だった。少し歩くと道が開け、景色が視界に入った。「あ……」 そこは市内を一望出来る、知る人ぞ知る夜景スポットだった。「きれい……」 見ると周りには、恋人連れと思われる若者たちが、それぞれお互いのエリアを作って座っていた。「私、ここのこと知ってます。雑誌とかでよく載ってますから。いつか悠人さんと来たかったんです」「やっぱ知ってたか」「悠人さんは、ここに来たことあるんですか?」「いや、俺も初めてだよ。でもここならきっと、菜々美ちゃんも喜ぶんじゃないかって思ってね」「はい、すごく嬉しいです!」 * * * 自販機で缶コーヒーを買い、空いてるスペースに二人揃って腰を下ろす。 見上げると月も輝いていた。そのせいで星はあまり見えないが、それでもいつも見ている空とは比較にならなかった。「夢みたい……」 そう言って、菜々美が嬉しそうにコーヒーを口にする。「0時になったら、この魔法もとけてしまうけど
翌日はあいにくの雨だった。 菜々美〈ななみ〉のマンションまで迎えにいくと、玄関先で菜々美がうなだれた様子で待っていた。「おはよう、菜々美ちゃん」「……おはようございます、悠人〈ゆうと〉さん」「どうしたの、元気ないね」「だって……久しぶりに二人きりで、しかも悠人さんがエスコートしてくれるデートなのに……雨が降っちゃって……」「はははっ、確かに残念だけど。でも、天気だけはどうしようもないからね」「私、くじ運が悪いんですよ。天気予報、今日だけが雨なんて……一週間前から、てるてる坊主作ってたのに」「まあとにかく乗って。今日は天気のことも考えて、案を練ってあるから」 車を走らせて話をしていくうちに、菜々美も徐々に元気になっていった。 仕事の相談、春の新作アニメの感想、魔法天使〈マジック・エンジェル〉イヴ映画化のことなど、特にいつもと変わらない話題だったが、悠人と同じ空間にいるだけで、菜々美にとっては新鮮で特別な時間となっていた。 * * * 着いた先は、市内の有名な水族館だった。「水族館ですか悠人さん!」「うん。雨だからどうしようって思ったんだけど、入社した頃に菜々美ちゃん、ここに来たいって言ってたのを思い出してね。まああれから随分経つし、もう来てると思うけど」「私、初めてなんです!」「そうなの?」「はい! ずっと行きたいって思ってたんですけど、一人で行くのも寂しいなと思って。 でもびっくりしました。悠人さん、あんな昔に私が言ったこと、覚えていてくれたんですね」「たまたまだけどね」「嬉しいです、悠人さん」「じゃあ念願のジンベエザメ、見にいこうか」「はいっ!」 まるで海の中を潜っているような錯覚を覚え